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大阪生まれの不器用男が北海道で写真を撮影する何故

【My Story】

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episode:8 写真家としての成長と北海道

 

父の他界に心奪われる間もないような忙しい日々が続き、私は薄給のカバーとさらなる成長を求め、会社には秘密にはしていましたが、仕事が休みの日に広告撮影を始めるようになります。

広告撮影と言っても当時の私は素人同然で、なけなしの給料で購入したストロボ機材の使い方を先輩方に使い方をしつこく教えてもらい、昔働いていた居酒屋の先輩が始めた会社の撮影を担当させて頂いたのです。

飲食店のパンフレットの人物撮影、駆け出しの芸能人の舞台のパンフレット撮影、舞台の本番撮影、多岐にわたる撮影をそこで経験します。

会社が休みの日に受ける仕事なので、当然休みが無くなります。今考えれば徹夜を含む残業の嵐の中、休みの日に別の撮影をこなし、若さゆえの体力であったと思います。

そしてこの頃元バンドメンバーにも撮影の練習も兼ねて、作品撮りをお願いするようになり、アーティスト写真も沢山撮影します。

 

ウェディングフォトも、入社して2年目に入るころには結婚式本番撮影にもどんどん撮影に行くようになり、型物・集合撮影も多い日は一日に6~7件撮影する事もあったり、忙しい日々ではありましたが徐々に写真家らしくなっていきます。

会社はどんどん規模が大きくなっていき、外苑前から表参道に移転し、そこでスタジオ撮影も学び始めます。

 

そんな中、2011年3月、東日本大震災が起こります。

当時表参道の事務所にいた私は、尋常じゃない横揺れでビルが倒れるかもしれないと思い非常階段の扉を開けに行った事を今でも覚えています。

 

一旦揺れが落ち着いた後、その日たまたま自転車で会社に来ていたので、急いで長女のいる保育園に向かいます。道中、街はビルから急いで出てくる人々で溢れかえっていました。

そこら中のブロック塀が倒れていましたが、保育園は無事で長女を家に連れて帰ります。

 

家の中は物が倒れて無茶苦茶になっていましたが、大きな損傷はなく、安心したところでニュースで津波の情報を知ります。

その後皆さんもご存じの通り、福島第一原発の事故が起きます。会社からは急いで西に逃げるようにと新幹線のチケットが渡されますが、私の周りにはそうするスタッフはおらず、私の家族も東京に留まりました。

 

混乱はしばらく続きましたが、数か月で元の忙しい生活に戻ります。私はその頃からフォトグラファーのスケジュール管理や依頼などをする部門に配属されます。

そして念願であった指名のフォトグラファーに名を連ねる事になります。

ただまだ入社して3年の私にとってはプレッシャーの方が大きく、自信のない日々が続きます。

 

フリーランスフォトグラファーの面接も担当するようになり、子供の様な経験しかない自分が、バリバリのプロのフォトグラファーの面接をするなどおこがましい、などと思いながらも日々は過ぎていきます。

 

その頃ウェディングフォトのスクールも始まり、会社はどんどん規模が大きくなっていき、私はフォトスクールの講師も務める事になります。

当然授業を行うにあたり私も必死で学び、少ないながら私の経験した事を授業で教えるわけですが、やはり経験の少ない自分にとっては本当に自分がこんな授業をやっていいのかと、自問自答が続きます。

 

2012年頃からは海外にも撮影に行く事になり、上海、ハワイ、バリ、などに行きます。

そして2013年には東京の店舗のチーフフォトグラファーに任命されます。当時はフリーランスで50名くらいのフォトグラファーと、20名近くの社員フォトグラファーがおり、プレッシャーに押しつぶされそうになりながらも仕事に励みます。当然怒涛のような日々の中でしたが、同じ志をもつ仲間と過ごす日々はとても充実していました。

 

そんな時妻から相談をされます。

 

「北海道に移住したい」

 

実は2012年頃より長女が体調を崩しがちになり、2013年の初頭にはちょっとした胃腸炎が悪化し絶食しながら数週間の入院になったり、良い時と悪い時を繰り返すようになります。

そんな中、妻は夏の期間だけしばらく長女を連れて、あるNPO法人を頼りに、北海道に保養に行っていたのです。

その当時私はそれは大げさすぎると半信半疑でしたが、私達は長女の体調不良の原因に原発事故も関係しているのではないかと疑うようになっていました。

私達は長女の体調不良の原因を探るべく、色んな病院を周ったものの、結局原因が分からなかったのですが、ある病院で血液の数値が良くなく、甲状腺に多数の嚢胞が出来ている事を知らされます。

嚢胞は良性であれば放っておいても問題ない事が多いが、血液の状態が良くなく、癌に発展する可能性もゼロではないからからしっかりと経過観察をした方が良いと言われ、その先生からははっきりと原発事故の影響もあるかもしれないと告げられます。

 

それを聞き途方にくれた私達ですが、当時東京で原発事故や放射能の話をすると気ちがい扱いされ誰にも相談が出来ません。

そうした中でも私は忙しい日々が続き、重責を感じながらも仕事に励みます。私はその頃には入社して5年目に入り少しずつ自信を付けているところでした。

 

そして2013年の6月に長男が誕生します。2013年の夏には0歳の長男を連れて、その年も妻が子供たちと北海道へ保養に行きます。

その年は妻からもう少し長く北海道にいたいと相談され、8月いっぱいの東京を離れる事に。そして翌月になり、保養の期間をこのまま延長したいという事と、別の相談をされます。

 

「北海道に移住したい」という相談でした。

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